アフガンに播かれた種に思う (書評『アフガン農業支援奮闘記』高橋修編著 石風社)

緑の大地計画の一端として

本年3月1日付けを持って発行された同書は、ペシャワール会が行なってきたアフガニスタンでの農の営みの記録である。中心になって執筆したのは高橋修さん。同会農業計画の責任者である。これと共に、この計画に携わった全てのワーカーたちの文章が掲載されている。08年夏に亡くなった伊藤和也さんの文章ももちろんある。

同計画は、ペシャワール会が2002年3月に発足させた「緑の大地計画」の重要な一翼として進められた。井戸による飲料水の確保、用水路による農業用水の確保とともに、乾燥に強い作物の育成・普及により、旱魃に苦しむアフガニスタンに緑の大地を復興させることが目指された。

同書の「まえがきにかえて」の中で、中村哲医師が次のように述べている。「計画は、農業専門家として経験豊富な高橋修さんが、日本から志願してきた若者たちを指導しながら進められた。」「農業担当者の者はPMSダラエヌール診療所に併設された職員宿泊所に常駐し、近隣農民との親交を深めながら、仕事をした。半ば定住したと言ってよい。日本から来たワーカーは、橋本を皮切りに、伊藤(故人)、進藤、山口らが粘り強く仕事を続けた」。より正確には、この計画に参加した日本人は、高橋修さん、目黒丞さん、稲田定重さん、橋本康範さん、伊藤和也さん、進藤陽一郎さん、山口敦史さん、宮路正仁さんであった。  同書では、高橋修さんが描く農業計画の姿を骨格とし、それに、若者たちがどのような思いで参加し、何を見て、何を感じ、いかに行動したのかが書き加えられている。長い農の経験と知恵を、アフガンに生かそうとする高橋さんの思いと、緑の大地と平和を取り戻したいという若者たちの情熱が折り重なり、それが近隣の農家の心に深く染みこんで、ダラエヌール渓谷に、少しずつ、緑が蘇っていく様が、生き生きと描かれている。

「現地主義」を原則に

これらの行動の中でも、とくに注目に値するのが、高橋さんが打ち立てた「現地主義」の原則だ。高橋さんはその内容を「主役は農家」「現地の技術を改良しながら」「資機材は現地調達を基本として」と、3つにまとめている。 日本からの「技術移転」や「技術指導」という尊大な視点に立つことなく、アフガンの風土の中で培われてきた伝統的な知恵に学び、それを生かし、発展させることを軸としていくこと、そのためにまずは農家と共に実態の把握をなし、生の意見を集め、課題を共有していくことが核心をなしている。

この原則が、ワーカーの若者たちの心の中にも浸透していく。日本と現地を往復する高橋さんに対し、現場から頻繁にメールを送っていた橋本さんは、高橋さんに、何より常に現地の人々の様子をリアルに報告していたこと書き、こう続けている。

「高橋さんは、「作物栽培が第一ではなく、人を育てることが何よりも重要である」と、常に様々な方法で私に伝えてくださった。「現地の人を立てなさい」ということをいつも高橋さんはおっしゃっていた」。そして若者たちは、悲喜こもごもの苦労を重ねながら、現地主義に立ち切って、アフガンの、頑固な農民たちに迎えられていくのである。

では現地の農民たちの生の声、切実な要求とは何であったのか。第一には「子どもだけにはひもじい思いをさせたくない」ということ。主食の確保である。第二に家畜の餌を確保すること。アフガンでは家畜はいざというときに換金できる大切な貯金に該当するのである。

そして第三が優良種苗の配布であり、第四が生活に潤いをもたらす作物の栽培であった。高橋さんたちは、これに節水技術と、地力増強技術の開発・普及をつけ加えた。

この主食の確保において、大きな発展を作り出したのは伊藤さんだった。橋本さんを引き継いだ伊藤さんは、小麦の栽培において、日本で習ってきた「技術移転」的な考え方を徐々に捨て去り、現地の農家の知恵を総結集する方法に転じていった。

そして2006年秋に試験農場で10アール475キログラムの収穫を実現する。現地農家の平均収量200~250キログラムの約2倍の収穫だったが、各農家の工夫をまとめあげて実現したことに意義があった。高橋さんはこれを現地主義の理念による成果の代表例としてあげるとともに、「この活動は・・・伊藤君の成長を象徴する足跡として意義が深い」と述べている。

高橋さんたちは、さらにさまざまな作物の栽培に取り組んでいった。主食では米、サツマイモ、そば、大豆。飼料ではソルゴー、デントコーン(とうもろこし)、アルファアルファ。潤いをもたらすものでは、お茶、ブドウ、除虫菊など。その一つ一つを根づかせる奮闘記は、読者をして試験農場の上に立っているような感を抱かせてくれる。

さらにこうして開発した様々な知恵の普及に活躍したのが進藤さんだった。進藤さんは長老たちを集めた収穫祭を提案した。試験農場で収穫した作物を調理して出し、お土産に種子を持ち帰ってもらうのである。

とくに2005年の収穫祭の様子を記した進藤さんの文章は楽しい。実は収穫祭当日に、企画を取り仕切っていた現地スタッフが出席をこばんでしまうハプニングがあり、進藤さんは冷や汗もので開会にこぎつけるのだが、そうしてときに窮地に陥りながらも、若者らしい明るさで歩んでいく進藤さんの試みと、それを懐に温かく包み込んでいくアフガンの農民たちの姿が、ユーモラスに描写されている。

こうしてペシャワール会農業計画は、確実に現地の人々のものとなり、支援するものもされるものないような形で、大地に根づき始めた。そこでは「飢えた貧しい国の人々」と、それへの「援助」「支援」という関係性ではなく、共に困難に立ち向かい、豊かな実りを分かち合っていく人々のドラマが展開された。

悲劇を乗越えて

しかしこうした高橋さんとワーカーたちの試みは、あまりにも悲しい事件で断絶されてしまうことになる。この過程をまとめたのが、本書の終章にあたる「農業計画、中断の止むなきに至る」である。

2008年に至り、アメリカ軍のアフガン作戦は完全な泥沼と化し、国内治安が悪化の一途を辿る中で、ダラエヌールにも不穏な空気が漂い始めた。これに最も敏感に反応したのは中村医師であった。 同年6月、中村医師より高橋さんに、ワーカーたちを年内には帰国させねばならないかもしれないというメールが入る。実は高橋さんも同様の不安を感じていた。本書に載せられた、このときの二人のメールのやりとりには、鬼気迫るものがある。

中村医師は現地の状況が刻一刻と厳しくなっていることを伝える一方でこう書いた。「小生はこれまで通り、現地と命運を共にいたします。・・・旱魃は確かに天災ではありますが、事態をいっそう悪くした軍事介入と「復興支援」、これを支えた心ない官僚、政治屋、戦争屋たちに、せめて一矢を報い、以って辞世の句としたいと思っております。重ねて、これまでのご協力に心から感謝いたします。日本人ワーカーが無事に帰るまで、今しばらくご指導のほどを宜しくお願い申し上げます」。

これを受けて高橋さんは、「葛藤を繰り返しながら」農業計画終了の案をまとめ、現地に残るワーカーの伊藤さん、進藤さん、山口さんに宛ててメールを書いた。「数日前、中村先生から現地の旱魃状況と治安の情勢について詳細に連絡をいただきました。また合わせてダラエヌールにおける農業計画を終了し、ワーカー3名をキャナル流域の農業開発に当たらせたいとの考えを承りました。・・・皆さんの心中にはいろいろな思いがあると思いますが、どうかご了解をいただきたいと願っています」。

これに対して、若者たちは、このように返信してきた。「先日、高橋さんから農業計画終了時の対応案をいただきました。まさか、このような案が送られてくるとは思いもよらず、泣きながら読ませていただきました」。高橋さんは、このメールに「彼らの心情を思いやって涙が込み上げてきた」と書いている。

だがやはり撤収を優先せねばならない。中村医師と高橋さんが断腸の思いを深めながら、急ピッチでその準備を進めているそのとき、あの事件が起こってしまった。伊藤さんが拉致され、殺害されてしまったのである。農業計画は悲劇のうちに、中断を迎えてしまうこととなった。

伊藤さんが亡くなる話で終わる本書のラストはあまりに悲しい。だが「あとがき」の中で、高橋さんは、2009年2月、試験農場の担当農家から進藤さんにかかってきた国際電話を紹介している。「日本の皆は元気か?ミスター・タカハシは元気か?ミスター・イトウの家族たちも元気か?」「大丈夫だ。農業計画はちゃんと前進しているぞ・・・」。

高橋さんや、伊藤さん、進藤さん、そしてすべてのワーカーたちが、現地の農民たちとともに育ててきた作物は、着々と実りを続けている。農業計画は悲しみを超えて生き延びている。伊藤さんの播いた種は、アフガンの大地にしっかりと根をはったのである。

同時に伊藤さんは、そしてまた高橋さんたちは、私たちの胸の中にも種を播いたのではないだろうか。その種を受け取って育てられるかどうかに、緑の大地計画の帰趨の一端がかかっているのではないだろうか。本書を読み終えて浮かぶのは何よりもそのような思いである。本書が1人でも多くの方の手に渡ることを願いたい。

[2010年2月26日 守田敏也]

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